中国と時代背景

中国共産党第九回全国代表大会で毛沢東の後継者としての地位を党規約に明記された林彪の失脚にともなって、新しい党の活動体制が注目されていた中国共産党は、1973年8月24日から28日までの5日間、北京において、第十回全国代表大会を開催しました。大会は、毛沢東司会のもとに、周恩来が政治報告、王洪文が党規約の改正に関する報告を着こない、かつ中国共産党規約草案を提出し、これらを討諦して採択しました。さらに新しい中央委員会を選出しました。十全大会は、林彪事件に結着をつけ、新しい指導体制を発足させるという二つのねらいがありましたが、それらは、ほぼ達戊されたといって良く、特に若干37、8歳の王洪文が党規約改正の報告を行なったうえ、5人の副主席の中の一人に収まったことは、注目を引きました。
十全大会において、周恩来が政治報告を行なったことは、毛沢東を除けば、彼が当高の中国における最高の政治指導者であることを示したものと理解できます。アメリカ消息筋は、これによって、従来の対アメリカ緊張緩和路線が継続するものと確認し、周恩来のアメリカ訪間が実現する可能性が強まったと評価しているほどでした。その反面十全大会の前に穏健派の周恩来らの実務行政グループと、急進派の江青らの文革グループの主導権争いが、十全大会で行なわれると予側していたロンドンの観測筋では、新指導部は、この両者の均衡が図られたと分析していました。しかし副主席の地位を周恩来一人によって独占できなかったのは、江青グループの地位が上昇したからだという観測もありました。
大会の公式発表である新聞公報が、八全大会、九全大会のように開暮日に出されず、開暮後まる一日たって出され、大会期間がわずか5日間しかなかったなど、なお十分に説明しきれない都分を残してはいましたが、文革後の林彪事件に対し、党の手続き上のクリアし、新しく若手を入れて指導体制を作り上げたことは、この大会の成果とみることができます。
新聞公報が、従来、批修整風と言われてきた全国的な運動を批林整風とい言い換え、大会は憤怒をもって、林彪反党集団の罪悪行為を糾弾したと報じ、林彪・陳伯達の除名を告げたこと、周恩来の政治報告が、林彪反党集団の粉砕を九全大会後の最大の収穫として強調したこと、王洪文報告による改正新規約が、材彪に関する部分を一切削除したことなどは、十全大会が林彪粉砕を主軸に、いちおう党内の団結を実現した性質を持つものであることを物語っていました。
中央委員会に旧幹部の復活が目立ち、中央政治局に文革で台頭した新人が目立つ人事構成は、周恩来路線が推進されるにしても、それはなお文革急進派との調整が可能な範囲においてであることを予測させました。
周恩来の政治報告は、九全大会路線について、林彪反党集団粉砕の勝利について、情勢と任務の3つの部分からなっている。それによると、九全大会前、林彪、陳伯達が起草した政冶報告は、プロレタリア独裁下の継続革命に反対して、主要な任務は生産を発展させることだと考えました。これは中央によって杏定され、林彪は渋々、毛沢東が主宰して起草した中央の政治報告を読みあげました。その後林彪は、陰謀、破壊を続け、1970年8月、九期二中全会で反革命政変をおこしで未遂に終わり、71年3月、五七一工程紀要反革命武装政変計面を制定し、9月8日、反革命武装政変を引き起こして毛沢東を暗殺、別に中央を樹立しようとしました。陰謀は失敗して、モンゴルのウンドルハンに墜死しました。林彪とそのひとにぎりの徒党は、語録は手から雛さず、万歳は口から経さず、面とむかってはお世辞をいい、背後では毒手を下す。反革命陰謀集団でした。半世紀の間、中国共産党は十回もの重大な路線闘争を経て来た、林彪反党集団の殲滅は、党内における二つの路線闘争の結末ではありません。党内における二つの路繰闘争は長期にわたって存在すると思われます。
新党規約があらたに強調したのは、継続革命を行ない、今後も何回となくプロレタリア文化大革命を行なう、党員は敢然と潮流に通う革命的精神を持つべきである、共産党員の遵守すべき三原則、マルクス主義をやるべきであって、修正主義をやってはならない。団結すべきであって、分裂すべきでない。公明正大であるべきで、陰謀計画をやってはならない。の諸点でした。林彪を後継者と規定した部分を削除したほかに、旧規約で原文で十二行にわたる、毛沢東賛美の部分を全文削除していることも注目されました。継後者については、何百万、何千万というプロレクリア草命事業の継承者を育成するとうたっていました。

中国と時代背景

社会主義教育運動とお金

中国共産党の理論雑誌、紅旗の1973年、4月号、5月号は中国の内政の墓本的方向について巻頭論文で、大局を掌損せよ、と強調しました。さらに毛沢東路線と劉少奇路線を区別しなければならない、として、田舎農村における正当な労働報馴と物質刺激主義。人民公社の副業と資本主義的な傾向。食糧を中心とする農業政策と単一経営あるいはお金第一主義。社会資本の蓄積と利潤第一主義、が質的に異るものであるのを認識せよと求めていました。これらは現在進行中の社会主義教育運動の主要な内容を示していると考えられます。これらは57年夏頃より、中国共産党の呼び掛けにより、田舎の農村と都市で、社会主義教育運動がはじめられました。そして59年に始まる経済困難期において、家計にゆとりのあるブルジョア階級、地主、富農の勢力が台頭し、それが共産党内へ反映して、党内においてブルジョア階級の道をあゆむ勢力が台頭しました。この共産党、社会主義の道に反対する勢力との闘いとして、社会主義教育運動がすすめられました。田舎農村においては、古い経済、政治、組織および思想を清める連動、つまり四清運動としてすすめられました。65年1月の全国工作会議は、この四清運動は、公社・党機関の中にいる党内でブルジョア階級の道を歩む実権派との階級闘争であることを明らかにし、またこの運動の中で、農民の毛沢東著作の学習活動が行われました。こうして下から上に向けての、激しい大衆運勤の経験が文化大車命の進め方を示す教訓としてくみとられました。

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