プロレタリア文化大革命

1965年から69年に行われたプロレタリア文化大革命については、諸説があり定まりませんが、中国共産党中央、プロレタリアア文化大革命の決定によれば、資本主義の道を歩む実権派を闘争によって叩き潰し、プルジョプジーの反動的学術権威者を批判し、ブルジョアジーとすべての搾取階級のイデオロギーを批判し、教育を改革し、文化・芸術を改革し、社会主義の経済的土台に適応しないすべての上部構造を改革して、社会主義制度の強化と発展に役だつようにすることでした。文化大革命の直接の起因は、58年の大躍進、人民公社化の行き過ぎを調整した劉少奇の政策が、毛沢東から見て、中国革命の本質と成果に反する修正主義と考えられえことが決定的でした。さらに毛沢東を風刺した文芸作品が発表されるなど、反毛沢東の空気が台頭したことも毛沢東にとりて無視できませんでした。毛沢東はこれに対し、夫人の江青による京劇改革を推進して文芸界批判の突破目をつくる一方で、彰徳懐国防相の後任、林彪によって、人民解放軍の中で毛沢東思想の学習運動を展開し、この軍を背景に紅衛兵を動員して、劉少奇の息のかかった党機関を破壊し、党の要人や学術文化界の権威を逮捕しました。労働者の造反派が出て、革命委員会という権力機構を樹立しました。その後、労働者毛沢東思想宜伝隊を各文化機関、学校に送り込み、解放軍とともにこれを管理させ、党・行政機関・学術文化部門から劉少奇の影響を一掃しました。紅衛兵の実力行使は猛威をふるい、自殺者を出し、イギリス大使館の焼打ち喜件を起こしましたが、毛沢東と毛沢東思想の威信は高まりました。69年4月、九全大会で毛沢東を首、林彪を副とするプロレタリア司令部党中央が成立しました。新しく採択された党規約は全党の最高指導者に毛沢東、その後継者に林彪を掲げていました。劉少奇は、裏切り者、スパイ、労働運動の破壊者として国家主席の地位を奪われ、党からは永遠に除名されました。

中国と時代背景

          copyrght(c).中国と時代背景.all rights reserved

中国と時代背景